HOME - Profile - What's New - CM - Square Dance - My Cat - Memorial Visitor
Chat Room - Guestbook
SD Beginner's Index - Dancer's Index


仕事人のりぴ〜の仕事歴
〜 金になる仕事編 〜


 社会人になって、丸8年(1998年4月でね)。大きな異動もなく、ひたすらリサーチ畑で働いてきましたが、本当はいろんな仕事がしたいんだ。いや、リサーチは結構好きだし、本業はこれでいいんだけど、アルバイトでいろんな仕事を覗けた学生時代が懐かしい。そう、就職する前はそれなりにいろいろとアルバイトしていたんです。ここはそんな私のアルバイト歴を紹介するページです。え? 今? 今はなんてったってアルバイト禁止ですからねぇ。


  • アルバイト、じゃなくて「金儲け」(中学1年生)

     中学1年の時、趣味で作ったブレスレット。カラフルなビーズや文字のビーズを編み込んで作るものなんだけど、編み方とかデザインとかを極めてしまって、そのまま自分だけのものにしておくのがもったいなくて、商売しちゃいました。デザイン見本を作り、そこから基本デザインを選び、ビーズのカラーを選び、あとは編み込む名前を決めてもらって「ご注文」。毎週土曜日の日本人学校で注文をとり、次週まで仕上げていくというシステムにしていました。友達と2人であちこちに行って、「彼女のためにどうですか?」とか「2人でお揃いでどう?」と営業しまくってました。一律1本1ドルで売っていたんだけど、多い週は70本以上売れたので、結構大儲けでした。


  • 初めてのアルバイトは日本食レストランのウエイトレス(15〜18歳)

     15歳の夏、渡米後4年ぶりに日本に帰ってきた。そしてその時、たくさんの友達ができて、彼氏もできた。約1か月の滞在期間が終わってアメリカに帰る時、「きっと来年も帰ってくるからね」と固い約束を交わして旅立ちました。その約束を守るために帰国後(どっちが帰国なんだか)すぐにアルバイトを探し始めました。当時の私のおこづかいは月20ドル。日本に帰るための旅費は1000ドル。
     というわけで、目標1000ドル!っと気合いを入れていたところ、うちの近所でなにやら工事をしている。近づいて工事の人に話を聞いたら日本食レストランが出来るらしい。「しめた!」と思って即売り込みに行きました。結局、日本行きを果たした後も本帰国までの3年間勤めてしまったので、思い出はむちゃくちゃいっぱいあります。お客さんが酔っ払って「ねーちゃん、ねーちゃん」とからんで来ることもありましたが、年を聞かれ答えると、「うちの娘と一緒じゃないか!」と急に酔いが醒め、「早く帰りなさい!」と説教をしだす。男ってこんなもんよね、と早くも悟ってしまいました。単身赴任のおじさまや独身の駐在員とかが常連客で来ていて、そんな人達とはとっても仲良くなりました。私が仕事あがったら、そのままカウンターに一緒に座って食事をおごってもらうこともよくありました。そんな時は私はすっかり対等の気分で話をしていて、おじさまたちに「のりちゃんはその年で人生半分生きたような悟り方をしてるねぇ」と感心されているんだか、呆れられているんだか、という感想をもらされました。
     ところで、給料の話だけど、アメリカのサービス業従事者は給料よりもチップで生活しています。私もそうでした。給料は時給で2ドルくらいだった(むちゃくちゃ安いっしょ?)。でも、チップをもらえるから、結果的にはとっても割りのいいバイトでした。他のアルバイトもしていたけど、合計で1か月あたり300〜400ドルくらい稼いでいました。これなら目標もあっという間にクリア、なんですが、同年代の友達でこんなにお金を持っている奴はいなかったから、この頃の私は「おごり魔」と化していました。もちろん目標はちゃんと達成しましたけどね。
     そうそう、この年の目標は貯金だけではなかったのです。私が15歳でアルバイトを始めることを好ましく思っていなかった父親が、「アルバイトをして成績が落ちたら許さんぞ!」と威嚇するもんだから、私は意地になって勉強しました。この頃の私は「勉強第一、アルバイトが次で、遊びは最後」と毎日自分に言い聞かせて頑張っていました。おかげで言葉のハンデを乗り越えて、学年の上位10%に食い込むという快挙を成し遂げ、アメリカにいた7年間の中で最も成績の良い1年間となりました。
     話はバイトに戻って、私は基本的にとても人見知りする方なんだけど、この時「営業スマイル」ってものを覚えました。なぜだか仕事だと思うと言葉もすらすらと出てくる。特にうちの店は9割以上がアメリカ人のお客さんだったものだから、おもての仕事はほとんど英語。英語をしゃべっている時の私は、日本語をしゃべっている時よりも声が高くて、おしゃべりで、異様に明るいらしい。「のりこって英語話していると人格変わるよね」と店の仲間に言われました。学校では授業を受けるだけだったので、自分からしゃべることは少なかったけど、このバイトのおかげで英語を使う機会も増えたというものです。そうそう、うちの常連さんにブルック・シールズがいたんです。一緒に撮った写真もあるから、今度スキャナーで読み込んで載せようかな。あと、ステービー・ワンダーの奥さんとかも。エディー・マーフィーも近くに住んでいたんだけど、彼はもっぱら隣のバーガーキングに通っていました。


  • 家庭教師 その1 〜 日本語を教えるのじゃ(15〜18歳)

     どういう経緯でこのバイトをすることになったのか、まったく記憶にないんだけど、小学校5年生の男の子に日本語を教えていました。あ、相手は日本人ですよ。パイオニアの創設者の孫なんだけど、アメリカ生まれだか、う〜んと小さいときにアメリカに来たのか、日本語が怪しいので教えてやって欲しいということで、なぜか私がやることになったのです。う〜ん、どうしてだろう。思い出せない。このバイトの思い出は、いつも親のいない家と勉強していると必ず襲ってくる弟です。すっごくかわいい顔しているんだけど凶暴で、というか、まだわかんないんだと思うんだけど、金属バットとかを思いっきり振り回してくるから危なくてしょうがない。結構恐かったよ。愛が足りないのかねぇ〜。そういう子はぎゅ〜っと抱きしめてあげるに限るんだけど、私はにいちゃんの担当だし、そんなにいつも一緒にいるわけじゃないので、結局なついてもらえませんでした。ちょっと悲しい思い出かな。


  • 家庭教師 その2 〜 今度は英語を教えるのじゃ(15〜18歳)

     こっちは何となく覚えています。時期的にはもしかしたらもう少し後だったかもしれないけど...。日本から来たばかりの、こちらも同じく小学校5年生の男の子。楠正和って名前だったなぁ。お母さんが田村正和のファンだから息子に正和ってつけたそうな。
     正和はシャイな男の子で、アメリカに来たばっかりの時は友達もいなくて淋しそうで、私の仕事の半分は一緒に遊んであげることだったような気がします。自分も数年前はそういう状態だったから、気持ちがとってもよくわかり、かわいくてしょうがなかった。でも、すぐに現地校にも慣れ、近所にもたくさん友達ができて、私が行ってもなかなか帰ってこなくなりました。それはそれで淋しいような、でも喜ぶべきことなんだろうな、と思いながら通っていました。


  • 簡易家政婦 その1 〜 お掃除するの(15〜18歳:不定期)

     結局、アメリカでしたアルバイトって、日本への一時帰国を機に、いろんなバイトを始めて、最後に高校を卒業して本帰国するまでずっとやっていたんだなぁ。それはさておき、このバイトははっきり言って、おじさまにおこづかいをもらっていた状態でした。うちでよく行った日本食料品店のマネージャーをやっていたおじさま(しぶ〜い素敵なおじさま)が、家族が日本に帰ってしまって、ひろ〜いお家を掃除する人がいないのでやってくれないかと言われ、頼まれることにしました。でも、私の好きな時にそのお店に行けば、店の誰かが送ってくれて、終わったよ〜って連絡するとまた迎えに来てくれる、っていう「好きなときに出来る送迎つきお掃除のバイト」でした。時間制限もないし、約束の日もなく、とっても自由でかつ給料はむちゃくちゃよかった。たしか、1回行くと40ドルくらいもらっていたような気がする。その頃の私達にとっては大金でした(だって、1か月のおこづかいが20ドル。それで普通は足りるぜ、って額だもん)。
     結局あれは、おじさまが私におこづかいをくれていたんだと認識しています。お陰でそのお店の人達ともとっても仲良くなり、暇な時の遊び場になっていました。日本から逃げ出してきた、もしくは追い出された、もしくはアメリカで一旗上げるために日本を捨ててきたような若者(といっても当時の私にとってはみんないい大人)がうじゃうじゃいて、とってもいい勉強になりました。


  • 簡易家政婦 その2 〜 ワンちゃんの面倒をみてました(不定期)

     これも母親が取ってきた仕事だな(家庭教師と掃除のバイトも母親経由)。うちが家族ぐるみで付き合っていたお家の犬を、家族が旅行で留守をする度に面倒を見ていました。う〜ん、よくよく考えてみると2回かな。1回はひと夏うちで預かり、夏休み中この子(シンディー)とべったりだった。早朝(5時とか)に起こされるので、私は自分の部屋ではなく、地下室(玄関からは半地下、庭からは1F)のプレールームで犬と一緒に寝ていました。ゴールデンリトリーバーの成犬なんだけど、ぜんぜん賢そうでなくって、甘ったれでむっちゃくちゃかわいかった。しょっちゅう遊びに行っていた家だから、シンディーも私にとってもなれていたの。私は基本は猫派なんだけど、犬も大好き。
     でも、この子、次の年、私が日本に行っていたから預かれなくて、別の人(インド人)の家に預けられたんです。そしたら、慣れない環境ですっかり元気をなくしてしまって、食事も取らず、どんどん弱っていって、結局私が帰ってくる前に死んじゃったの。とっても悲しかった。私がいてあげられたら死ななくて済んだのに、って悔やんでも悔やみきれない思いがつのりました。
     その後、しばらく経ってから、この家はまた犬を飼いました。あれは私が本帰国する夏だったな。もう一度そこの家の犬の面倒をみることになり、今度は通いで行ってきました。この子はまだ子犬で、やんちゃでしかたなかった。これは写真があるから、今度載せようかな。


  • 金儲け その2 〜 焼き鳥の屋台が大成功(高校3年生の夏)

     日本人のコミュニティで「夏祭り」なるものがありました。誰が主催していたのか覚えてないけど、ショバ代15ドルを払うと出店できるシステムで、どういう経緯だったか忘れたけど、私は別れた彼氏と一緒に焼き鳥屋を出店することになった。前日から徹夜で仕込みをして、当日はただひたすら焼きまくる。値付けはちょっと高めでした。肉の量が多くて、最初はなかなか焼けず、売れ行きもイマイチだったんだけど、ひとたび売れ出すと、今度は飛ぶように売れた。みんなまとめ買いをするもんだから、全然追い付かず、本数制限をしたくらい。それでも順番待ちの列がどんどん長くなる(20〜30人並んでいたよ!)。ネタも全然足りなくて、急遽近くのスーパーを何軒かまわって鳥肉を買い占め、母親と友達に協力してもらって追加の仕込み。いや〜、あまり儲けるつもりはなくって、参加することに意義がある的な精神でやったはずなのに、結果は大儲けでした。私って商才があるのかしら?


  • 水商売 その2 〜 赤坂プリンスホテル(18歳の秋〜19歳の3月)

     帰国後、無事受験をすませ、10月から晴れて自由の身となった私。4月の入学まで暇なのでアルバイトをすることにした。赤坂プリンスに行く前は、配膳人協会に登録して、単発でホテルニューオータニで宴会(ほとんどが披露宴の配膳)をやっていた(私が宴会してたんじゃないよ)。配膳の世界の話も結構おもしろい。いろんな人がいるから。なんで配膳の仕事をしてたかって、そりゃ給料がいいから。それに時間が自由だったから。でも、仕事は超きつかったよ。誰もちゃんと教えてくれないし、現場はピリピリしてるしね。でも、ホテルの裏側が見れておもしろかった。普段みんなが通っている廊下の壁の中には従業員用の通路が迷路のように張り巡らされているんだよね。いろんなところに隠し扉みたいなものがあって、まるで忍者屋敷でした。
     赤坂プリンスの仕事は「長期で入りたい」ってことでお願いして、10月頃から3月まで毎朝8時に出勤し、夕方6時まで立ちっぱなしの仕事。優雅なロビーラウンジの仕事だから、走り回るようなことはないんだけど、姿勢をただしてじっと立っている方がよっぽどつらい。時間が経つのがとってもゆっくりだし、歩いていれば足の痛さって忘れられるのよね。それに毎朝8時出社というのがいやはやなんとも。今の私からは想像できない生活ですね。しかも、とっても寒かったのを覚えている。冬の早朝は寒いよねぇ〜。で、ロングコートを着て出社したりするわけだけど、仕事は制服だから、一度「寝坊しちゃったもんで」とパジャマの上にコートを着てきた子がいたなぁ。いやあ、私にはその勇気はありませんでした。
     場所が場所だけに、有名人も来ます。郷ひろみが来た時は大騒ぎだったなぁ。郷ひろみとその相手の男性が飲んでいたオレンジジュースのグラスを下げてきたら、「どっち!? どっちが郷の!?」って詰め寄られました。私はファンじゃないからどうでも良かったんだけどね。彼女はストローを舐めたかったみたい。


  • 季節労働者 〜 晴海の見本市会場で三越のお歳暮バイト(大学生の冬)

     これはうちのサークルが契約しているバイトで、期間中ならいつでも行っていい、という仕事。早朝にそれぞれのターミナル駅(新宿とか池袋とか)に来るバスに乗ればあとは晴海まで連れていってくれる。何回か行ったと思うんだけど、はっきりと覚えているのは大学2年生の冬。それまで全然バイトをしていなくて、貯金を食い潰して生活していたんだけど、とうとう貯金が底をつき、超貧乏になっていた。このバイトのいいところは食事がついていること。とにかく食べることに困っていた私だから、バイトで出る食事がその日の唯一の食事だった。バイトした時の昼食以外は食べていなかったので、なんと1か月で七キロも痩せてしまいました。お正月に撮った写真ははっきり言ってやつれていました。
     仕事の内容は様々なんだけど、うちのサークルの持ち場は入り口で納入される品物の検品をすることでした。検品と言っても、実際に中身を確認するわけではなく、伝票に書いてある納入数とトラックが運んでいた箱の数が一致しているかを数えるだけなんですけどね(つまり数を数えてハンコを押すだけ)。仕事はトラックが入ってこないと発生しないから、その他の時間は待機。うちを通った後は段ボールから商品を出す班、商品を三越の包装紙で包む班、伝票を貼り付けていく班、ベルトコンベアに乗せる班、ベルトコンベアを「見つめる」班、空いた段ボールを壊す班、とかなり細かく仕事が分かれていました。でも、うちの仕事が一番楽チンだったような気がする。「見つめる」班は楽かもしれないけど、あまりにも暇でつらいだろうし...。
     夕方になると、「残業してくれる人〜」ってヒアリングがあって、2時間残業するとおむすびが2個もらえる。食料危機に直面していた私は、真っ先に手をあげて、おむすびをゲットしました。夜の仕事は伝票整理。それが終わると再びバスに乗り、今度は全員東京駅まで運ばれる。
     なんとなく奇妙なバイトでしたが、晴海の見本市会場が巨大生産工場のようになってしまうのもおもしろかったし、むちゃくちゃたくさんの人を結構いい加減に雇っているそのやり方も興味深かった。普段は見れない世界を見た、という感じでした。


  • 家庭教師 その3 〜 英会話を教えてました(大学時代のいつか)

     大学生と言えば家庭教師。みんな結構稼いでいたけど、私は普通の家庭教師はやらなかった。だって、この場合、家庭教師に望むことって受験をくぐりぬけさせることでしょ? 私は普通受験してないからねぇ〜。私は自分の得意分野で、ってことで、英会話の家庭教師を2件やってました。1件は社会人のおにーさん、おねーさん3人まとめて面倒みちゃう、ってやつです。でも、みんな恥ずかしがってしゃべらないのよねぇ〜。私が日本人の顔をしているということにハンデを感じました。日本語ペラペラでも、外人顔だと相手も日本語をしゃべっちゃいけないという気持ちになれるらしい。そんなわけで、英会話スクールとかでも差別される。ま、しょうがないかね。もう1件は小学校から高校生までの兄弟3人をまとめて面倒みますってやつで、でも長男は早々とリタイアしちゃいました。2番目の女の子とは結構仲良くなったんだけど、やっぱり子供って家庭教師を遊び相手だと思っているらしく、英語をしゃべるよりは今日学校であったこととかを日本語でべらべら語っちゃうのよね。こちらは途中、料金交渉で折り合いがつかず、やめてしまいましたが、久しぶりに子供とふれあえるいい機会でした。


  • ドミノピザでドライバー(大学4年生)

     この時もしばらく干上がっていたんだと思う。何かバイトをしなくちゃなぁと思いつつ、フロムエーで見つけたのがこのバイト。もちろん「食事つき」が絶対条件でした。石神井公園のほとりにドミノが新しく出店し、そのオープニングスタッフを募集していたの。その頃、ピザのデリバリーってはやり始めた時だったし、オープニングってのも楽しそうだった。それに「ドライバー」って職業に強烈な魅力を感じた。面接の時の事、とってもよく覚えている。あっちは私がドライバーを希望したので、ちょっと驚いていた(普通、女の子はインストアと言って、店の中でピザを作る方の職種をやる)。そして私は採用です、と言われた後で「あ、そうそう、食事はピザだから」と言われて、「しまった!」と思った。ちょっと考えればわかったことなんだけど、私ピザってあまり好きじゃなかったの。くすん。
     でも、仕事はむちゃくちゃ楽しかったし、店長が最高にいい人で...というか、とっても厳しい人だったんだけど、その分尊敬できる人で、「仕事をする」ということの意味を教わったバイトでした。
     オープニングの時はものすごく忙しくて、驚異的な売上を記録しました。そんな時は2枚3枚持ちは当たり前で、30分の制限時間に間に合わないことも当然出てきます。ピザが焼き上がるまでの時間を利用して、最短ルートを検討し、焼けた瞬間に飛び出すわけですが、忙しい時は戻ってきた瞬間にもうピザが焼けて待っている状態。そうなるとルートの検討はできないし、残り時間も短い。かと言って、まったく地図を見ずに出かけるのはドツボにはまる可能性もあり、大きな賭けだった。制限時間に間に合わず、700円引きをしてもドライバーの成績や給料にはなんの影響も及ぼさないんだけど、それでもみんなこれをとっても気にしていた。バイク少年がたくさん集まっていたんだけど、やっぱりみんな自分の意地をかけて配達してたなぁ。すっごくドキドキするバイトだった。私はこのバイトの影響でバイクの中免を取ることになりました。バイトの合間をぬって、1週間で免許取得。ここでももちろん記録を狙いました。
     ここではちょっと書けないことを含め、いろんなことがあったバイトでした。


  • 「調査」と名のつくバイトを2つ(大学4年生:単発)

     お金がない。「とりあえず日銭が欲しい」って時に日払いのバイトを探しました。で、単発でやったのが社会調査研究所の調査員の仕事ともうひとつはバスの交通量調査。前者の仕事は一週間くらいやったかな。自分の受け持ちの家庭に訪問して、調査を依頼して、後でまた回収してくる、という仕事なんだけど、これが思ったよりつらい。同じようなエリアではあるんだけど、結構歩いたり、行っても本人がいなくて何度も訪ねたり、回収はAさんとの約束の時間とBさんとの約束の時間に随分間があって、近くの喫茶店で何時間も時間をつぶしたり。で、報酬は1票あたり500円ってなもんだから、お茶代の方が高くついちゃった。本当にくたびれ損でした。
     交通量調査の方は1日だけで、早朝6時くらいから始動して、「始バスから終バスまで」。一日中バスに乗って、乗降客に札を渡したり回収したり。つらかったのは乗り物酔いね。でも、これもちょっと変わっていておもしろかった。結構しんどかったけど。「真面目に働いてくれる」って褒められちゃったし。でも、どうしてわかるんだろう。みんながさぼりたくなる気持ちもわかるし、さぼっていてもわかんないと思うのに、どうして私が真面目にやってたってわかるんだろう。不思議だ。


  • 出版物に名を残しました(社会人になってから)

     最初に書いた通り、就職してからは「アルバイト禁止」なんだけど、これは許してもらいました。私の上司が「アンケート調査入門」という本を出版することになって、そのお手伝いをしたのです。ある章の一部を執筆(と言っても内容となる資料あり)しました。名前も載っています(「楠美」だけど...)
     大変だったけど、結構いいお小遣い稼ぎになりました。でも、これだけだなぁ、社会人になってからやったアルバイトって。ああ、もっといろんな仕事をしてみたい!





  • This page is maintained by Noriko Takahashi